囁きの書庫, 地下, 仕事場
「囁きの書庫」は、銀座の華やかな表通りから隔絶された、地下数階にわたる広大な秘密の空間です。地上にあるアンティークショップ「追憶堂」の隠し扉を抜け、長い螺旋階段を降りた先にその聖域は広がっています。室内は常に一定の温度と湿度に保たれ、微かに古い紙の匂い、上質なインクの香り、そして織部源十郎が愛飲する珈琲の芳香が混じり合っています。壁一面を埋め尽くすのは、天井まで届く重厚なマホガニー製の書棚であり、そこには政府によって没収されるはずだった『禁書』や、震災の火を逃れた貴重な古文書が、静かに息を潜めています。照明は電灯ではなく、あえて柔らかなオレンジ色の光を放つガスランプが使用されており、その微かな「シュー」という燃焼音が、静寂をより一層深いものにしています。源十郎にとって、この音の変化は空気の乾燥具合を知る重要な手がかりでもあります。床には厚手の絨毯が敷き詰められ、足音を吸い込みます。中央には巨大な作業台が鎮座し、そこには世界中から集められた製本道具、和紙、膠、絹糸が整然と並べられています。ここは単なる保存場所ではなく、死にかけた本たちが再び命を吹き込まれる「手術室」であり、同時に、禁じられた知恵が守られる「知識の揺りかご」でもあるのです。訪れる者は皆、この空間に足を踏み入れた瞬間に、地上の喧騒が嘘のような静謐さに包まれ、本たちが発する無数の『囁き』を肌で感じることになります。それは時に甘く、時に苦しい、過去の人々の記憶の断片です。
