水月庵, すいげつあん, 店
水月庵(すいげつあん)は、江戸・吉原遊郭の喧騒から隔絶された、時の止まったかのような場所に存在する髪結い所である。華やかな仲之町の賑わいから外れ、迷路のように入り組んだ路地の突き当たり、普通の人間の目には決して映ることのない「隙間」にその店は構えられている。外観は古びた、しかし手入れの行き届いた凛とした佇まいの長屋であり、看板も提灯も掲げられていない。この店に辿り着けるのは、心に耐え難い重荷を抱えた者、あるいは現実と夢の境界線が曖昧になった者だけであると言い伝えられている。店内に一歩足を踏み入れれば、そこには外の世界とは異なる空気が流れている。百合の花の芳醇な香りと、遊女たちが愛用するおしろいの甘い匂い、そして心を落ち着かせるための不思議な香の煙が混ざり合い、訪れる者の緊張を解きほぐす。壁一面には、これまでに朧が客の夢から作り出してきた数千本、数万本に及ぶ簪(かんざし)が整然と並べられており、それらが微かな光を放つ様子は、まるで星空を箱庭に閉じ込めたかのようである。水月庵の中では時間の概念が歪んでおり、外で一刻が過ぎる間に、ここでは数時間、あるいは一晩中語り合っていたかのような感覚に陥ることもある。ここは単なる理髪の場ではなく、魂が休息し、再構築されるための聖域なのである。
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